何世紀にもわたるバカラの歩み – 最古のカードゲームの歴史
バカラはなぜこれほど人気なのでしょうか?ルールが簡単なこと、低いハウスエッジ、ジェームズ・ボンドで一躍有名に、といった理由が思い浮かびます。それでも、単純なゲーム性だけで15世紀の兵士からきらびやかなラスベガスのカジノ、そして現代の最先端オンラインプラットフォームまで人気が衰えることなく続くとは思えません。このゲームがどのように生まれたのかをまず見てみましょう。
バカラの起源 – 中国のゲームと古代ローマの儀式
世界中で最も人気があって歴史のあるカードゲームの一つでありながら、バカラの起源ははっきりしません。初めて文献に登場するのが19世紀ということもあり、それ以前の話は推測の域を出ません。それでも、考えうるバカラ誕生のいくつかのシナリオは興味深いものです。そのうちの一つが、カードの代わりに牌を使って行われた中国の牌九(パイガオ)が形を変えてバカラになったというものです。根拠は、牌九の名前にも見られる9という数字がバカラでも最高の手であるということです。ただしこれらを繋げる証拠が見つかっているわけではありません。
これもまた数字の9を根拠にしたものですが、バカラのルーツを古代ローマのウェスタの処女がサイコロのようなものを使って行った占いとする説もあります。これは、9か8が出ると将来は高位の聖職の座が約束され、7か6ならその地位が剥奪され、これら以外の数字が出ると海で溺死しなければならないというものでした。確かに9という数字がこれらゲームまたは儀式から採り入れられた可能性は否定できませんが、それでもバカラがなぜトランプを使うゲームに変化したかの説明がつきません。ということで、マルコ・ポーロが長い航海からイタリアに戻った13世紀末へと早送りしてみましょう。
イタリアでの静かな誕生
「テーブル上のカードゲーム」が初めてフランスの文書に登場するのは1330年代のことです。トランプの希少さから、印刷技術が発明される前はカードゲームは一般的なものではありませんでした。当時のトランプは一枚ずつ手で描かれるか、1290年代の終わりにマルコ・ポーロが中国からイタリアに持ち帰った凸版技術によって刷るというものだったのです。その後印刷技術が発明されると、78枚ずつ印刷されるトランプは大きく広まりました。そして新しいカードゲームが急速に増え、バカラのような古いゲームはトランプでも行えるよう適応していきました。
バカラはフランスの ゲームとして認知されることも多いのですが、歴史的な根拠をたどるとイタリアで誕生したとみるべきでしょう。Tarrochiは14世紀イタリアで行われていたタロットカードの前身であるカードゲームで 、確固たる関連性は見つかっていないものの、バカラの元でもある可能性があります。Felix Falguiereという名のイタリア人がタロットカードから現在の形のバカラを発明したと考えられています。他にも、当時イタリアで人気があった(やはり9が関係する)マカオと呼ばれるゲームにはイタリアンバカラという別名もあり、現代のバカラの元となったと言われています。Le Herもまた、最古のバカラの起源であるかもしれないととらえられている高い数字が勝つゲームです。Le Herは1枚だけのカードが2人のプレイヤーにそれぞれ配られて対戦するゲームでした。カードにはそれぞれ1から13の値があり、キングが最強の札でした。キング以外のカードは交換することができ、2、3枚目のカードを引くバカラに似ているといえば似ています。
19世紀に入るとVingt-et-un、フランス語で「21」という意味を持つ名の一連のゲームが登場します。もちろんブラックジャックもですが、Hoyle’s Official Rules of Card Gamesではバカラの元祖としても関連付けています。この本で実際に紹介されているゲームはBaccarat en Banqueというもので、1911年版のThe Official Rules of Card Games Up to DateではBaccarat en BanqueとChemin de Ferは明確に別々のゲームとして掲載されています。
フランスでのバカラ – 高貴ながら違法な娯楽
バカラは一般的にはフランスのゲームとして知られているので、このトリコロールの共和国でどのように発展していったのかも見てみましょう。言い伝えによると、1490年代にイタリアから戻った兵士たちによってバカラはフランスに紹介されました。その後瞬く間に貴族階級の間で広まり、Baccarat en Banque (Baccarat Deux Tableux) とChemin de Ferという2つのバージョンがナポレオンの時代にプレイされていました。あまりの人気に、ルイ・フィリップ国王が1837年にカジノを違法化した後も法の陰でゲームは嗜まれ、またヨーロッパ中にその人気が広がりました。
Chemin de Ferには「鉄の道」または「鉄道」という意味があるので、このバージョンはフランスで鉄道が開業した1832年以降人気になったことがうかがえます。ただしそれを証明する当時の文献は見つかっておらず名前は後からつけられた可能性も否定できないので、Baccarat en Banqueの方が古いと推測するほかありません。初めてバカラが文献に現れるのは1847年、Charles Van-Tenacが13ページにわたりこのゲームの数学的分析をAlbum des jeuxに掲載した時でした。
大西洋を渡って太平洋へ – バカラがアメリカへ到来
アメリカ合衆国でのバカラの歴史について調べてみると、初めてギャンブル施設でバカラがプレイされた年として1911年がいくつもの記事や文献 で挙がります。これについては John Scarneや Steve Forteといった有名著者や専門家によって裏付けられています。ただし、当時の新聞の中にはこれを否定するものもあり、アメリカ合衆国で初めてバカラがプレイされた印刷記録は1871年のものだというのです。ニューヨークタイムズ紙の記事には、ロングビーチのクラブハウスで招待客が「ファロテーブル、ルーレットテーブル、バカラボード」 に群がったという記述があります。1899年のこれまたニューヨークタイムズ紙の記事によれば、バカラをプレイしていた30人のフランス人が逮捕されたとあります。こういった記事があることはありますが、一般的なバカラのアメリカデビューは1900年代初頭と考えられています。 John Scarneによると、Chemin de Ferは1911年ニューヨークでプレイはされていましたが、WWI中にアメリカ兵がこぞってプレイしたブラックジャックやクラップスのようなカジノゲームの人気にはまだほど遠かったとのことです。
アメリカでの最初のバカラの記録
ニューヨークタイムズ紙の記事が触れていたのはChemin de Ferでなく Baccarat en Banque ですが、それでも当初考えられていたより何十年も前にアメリカでバカラがプレイされていたのは興味深い事実です。それでも、1931年に米議会がギャンブルを合法化した際にバカラの名前はありませんでした。サンズが初めてバカラテーブルをオープンした1958年、導入されたゲームは Chemin de Fer でした。これは客同士が対戦する方式で、カジノは勝ったベットからテラ銭を徴収していました。バカラは1959年ラスベガスにTommy Renzoniが プントバンコという新しいバージョンを導入するまでメジャーなカジノゲームではありませんでした。元々アルゼンチンのMar del Plataカジノで1950年代初頭に考え出されたこのバージョンが現在のアメリカ、イギリス、オーストラリアのほとんどのカジノでプレイされるものになりました。
オンラインバカラの人気バージョン | |||||
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ゲーム | 特徴 | ベット限度額 | プロバイダー | ライブ | プレイする |
プログレッシブバカラ |
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5 – 250 | Playtech | yes | 1xbet |
バカラコントロールスクイーズ |
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25 – 25.000 | Evolution Gaming | yes | 1xbet |
グランドバカラ |
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3 – 100 | Playtech | yes | 1xbet |
スピードバカラ |
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1 – 5.000 | Evolution Gaming | yes | 1xbet |
マルチベットバカラゴールド |
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5 – 200 | Microgaming | no | 1xbet |
バカラハイリミット |
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1 – 500 | Microgaming | no | 1xbet |
ネバダ州でのバカラ – ベガスストリップでの初期のゲーム
1959年11月20日はラスベガスサンズが初めてのプントバンコテーブルをオープンした歴史的な日となりました。華やかに始まった夜でしたが、カジノにとっては25万ドルを負けるという荒々しいスタートとなりました。ありがたいことにオーナーたちはこれにめげることなくゲームを置き続け、すぐにコンスタントに収益を上げ始めます。やがてバカラは特別でハイソなゲームとしての地位を築き、1970年代にはベガスストリップ全体でも15テーブルが限られた時間のみに開くという形をとっていました。テーブルに座るには金持ちになるか有名になるか、もしくは両方が揃っている必要があったのです。
現在の人気
1960年代にベガスストリップでプレイされていた初期のバカラはRenzoniが南アメリカから持ち込んだプントバンコとは似て非なるものでした。初期のバージョンにはタイベットがなく、代わりにナチュラルに賭けられるサイドベットがありました。さらにチップの代わりに現金を直接賭けることができ、テーブル上でかさばらないように紙幣にはディーラーが石鹸のようなものを塗っていたのです。そのような紙幣は銀行や店で受け取り拒否されることもあったので、1970年代初頭になるとほとんどのバカラテーブルでチップを使うようになりました。今日のゲームプレイや雰囲気との違いはそれだけではありません。
華やかなサクラもきらびやかなゲームを演出する大きな要因でした。ミニマムベットで実際にプレイする若くて美しい女性たちは、ギャンブラーたちをテーブルに惹きつけたものです。現在はそういった従業員は一部のポーカールームを除いて見かけることはありません。バカラは時の流れとともに形を変え続け、アジアではスピーディーでさまざまなサイドベットやバリエーションが用意され、迷信や呪いが飛び交う中でプレイするダイナミックでエキサイティングなゲームへと変貌を遂げました。
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